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誤字脱字そして悪文、ご容赦ください。Sorry for being bad at grammar.
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鎌倉シネマワールド
松竹大船撮影所 写真館にて(50代)
 Paper
著書・論文
最終更新 2025/9/15
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国家と個人
 私は憂国と聞きますと国家主義を連想 します。  つまり、国家主義とは、個人を犠牲に しても国家を至上とする主義で、戦前・ 戦中の軍国主義者が、この思想を国民 に押しつけて悲惨な戦争を始めました。  現在においても、軍国主義者の一 部は、あの「崇高な戦争」は「個を超え た公のために」生きることで可能だった と言います。  そして、この「公」が、「国家」にほ かならないことを語っています。  しかしそれは、国民を支配し押しつぶ す「国家」であり、国益のために隣国に 強制的に自分達の言うことをきかそうと する「国家」です。  日本・軍国主義による侵略戦争と、 沖縄の地上戦の実態は、まさに「国家」 は決して国民を守らないことを証明し たのです。
国家と個人
 
筆者の近況報告
2025/7/5更新
北工会行事特集
撮影・編集 石川 栄一
大東亜戦争下の 我が親族
宦官・去勢 御用ジャーナリスト達
東北311
東日本大震災の被災者が忘れさら れないよう鎮魂歌を作曲しました。
鎮魂曲 安倍奇想曲
安倍奇想曲
暗殺
2024/9/26更新
怖い虫のお話し
カメムシは秋頃になると家の中に入ってきて異臭を発散させます。現在でも解決ぜず悩みの種になっています。
ロシア軍を無血で 完全撤退させる方法
一人も殺さず、殺されずに、ロシア軍をウクライナから完全撤退させる方法を紹介します。
売文婦 マスメディア
2024/9/19
Ukraine Neo-Nazi
AV用語辞典
ビデオソフトの 著作権問題
レーザーディスクの 経年変化問題
石川栄一作品展
石川栄一作品展
石川栄一作 小話
小話
私のコレクション
私のコレクション
売文婦マスコミ 和訳 石川栄一
低能が国民に嘘をつく自由として 「報道の自由を定義」
石川栄一の 怪談・奇談
怪談・奇談
愛国心
愛国心
北海道教育庁での アルバイトの思い出
大学紛争と文科省の 茶坊主集団の話
北方領土返還 ヒグマ大作戦
ヒグマの親子 知床には400~500頭生息 (イメージ写真)ANA

北方領土返還 ヒグマ大作戦

 知床では、今回(2025年8月14日)のヒグマによる人身事故以前から、人に慣れたヒグマが出没し、何時どこでも事故が起きてもおかしくない状況だったそうです。
 知床、羅臼岳の山小屋の管理人は「クマの近くに寝転んで写真を撮っている人を見た。クマは人間は怖くないと学習したのではないか。人はクマの生息地に入るということを理解し謙虚な気持ちを持ってほしい」と語ります。

 逆から見れば、クマに慣れた人間が出没し、いつどこでも事故が起きてもおかしくない状況だったとも言えます。

自転車を運転するヒグマ (イメージ jijicom)

北方領土にヒグマ上陸作戦

 そこで、人慣れしたヒグマを手懐け訓練して、現在、知床に生息しているヒグマ、400~500頭を密かに北方領土に送ったらどうでしょう。
 これには、さすがのロシア人も驚くでしょう。

 まず、ヒグマを大量に捕獲するために、知床半島に大きな生けすを造り、サケやマスを数百尾放します。そこにそれを捕りにやって来たヒグマを麻酔銃を撃って捕獲します。
 捕獲した数百頭の中から賢そうなヒグマを訓練して手懐けます。
 国籍不明の数隻の不審船を、ヒグマに操縦(場合によってはGPSで誘導航行)させて、夜陰に乗じ国後島、択捉島など北方領土に向けて発進します。それぞれの不審船には数十頭のヒグマを乗せておきます。

不審船(イメージ写真)

 不審船が北方領土の沖合に着くと同時に、自動的に船底から注水し、証拠隠滅のために沈没させます。船が沈むとヒグマは否応なしに、近くの島々(北方領土)に向けて泳いで渡り上陸します。

 クマは“泳ぎの名手”といわれていますし水浴びも好きで、昭和20-30年代までは、知床五湖や芦別岳の熊の沼、大雪山の沼の原・沼の平・高原沼などには水浴びのために来るヒグマの足跡が必ず見られたそうです。
 また、ヒグマがいない島で知られている利尻島にも、かつては北海道の沿岸、天塩から泳いで渡ってきたと噂されたヒグマ騒動もあったようです。

 当時の新聞記事によると、明治45(1912)年5月22日あたりから、ヒグマがいない島、利尻島にクマが現れていたとのことです。
 どうも、利尻島の対岸、北海道の手塩から島に泳いで渡り、一度上陸してからまた海に戻ったようです。そうして再び、利尻島(旭浜)に上陸しようと海岸に向かって泳いでいたところを漁場の若者達に発見され、大捕物のすえに斧で撲殺されてしまいました。

 しかし、北海道の天塩から利尻島までの距離は約50kmはあります。
 ヒグマがどのようにして泳いできたのか、今でも謎となっています。
 ちなみに北海道から国後島までは最短で約20kmです。

泳ぐヒグマ  (イメージ写真)マタタビの実

北方領土の共同統治

 さて、上陸した相手が兵隊ではなく、国籍不明のヒグマですから、話せば分かるというわけにはいきませんし、いつどこで襲われるか分かりませんから、国後島、択捉島をはじめとする北方領土は、このままでは人間が住めない状態になり、何も知らないロシア人は逃げ出すでしょう。

 もし、ロシア人が北方領土を捨てなくても、日本にヒグマ対策を協議したいと申し出てくること請け合いです。そこで日本は、ヒグマを撤収する条件として、北方領土の返還を要求するのです。これこそ、真のマッチポンプです。

 もちろんこれには、ロシアは拒否するでしょうが、数百頭のヒグマの脅威は解決できません。そこで、日本はロシアから「北方領土の共同統治」という条件を引き出せば、一定の成果を収めたと言えるでしょう。
 これにて、戦後80年、1ミリも進展しなかった北方領土問題の解決に向けて少しは動くと思います。

『マッチポンプとは、自らマッチで火をつけておいて、それを自らポンプで水を掛けて消すという意味で、偽善的な自作自演の手法・行為を意味する和製外来語である』

なぜ解決しないのか?ロシアから見た北方領土問題
色丹島出身大学生の思いは…ウェークアップ

北方領土(戦争をしないと)取り返せない
 ロシアのプーチン政権は、第2次世界大戦で連合国として日本に勝利してから80年となる今年、北方領土の支配を正当化する動きも強めています。

 かつて日本維新の会の丸山議員は北方領土問題について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「(戦争をしないと)取り返せない」などと発言し、トラブルになり、丸山穂高衆院議員が除名(2019年5月14日)されました。
 しかし、「戦争をしないとどうしようもなくないか」などという、このような考えは、丸山議員のみではないと思います。

 『彼を知り己を知れば百戦殆からず(古代中国のことわざ)』という諺があるように、戦う場合には、自分と相手の両方の優劣長短をよく知ることが大切であるとされています。また、孫子の兵法にも「戦う前に比較し十分な勝算が見込めるときに兵を起こす」とあります。

 1.敵味方、どちらの君主が人心を把握しているか。  
 2.将軍はどちらが優秀な人材であるか。
 3.天の利・地の利はどちらの軍に有利か。 など。

 しかし、そもそも、日本は戦争などできる状態ではないのです。
 日本本土沿岸には、原子力発電所が53基も建ち並び、もしもミサイルを打ち込まれたら、放射能で国土は汚染され、人間は生きてはいけません。

 いくら原子力発電所が停止していると言っても、実際は制御棒が降りているだけで、ミサイルで原子炉の制御システムが破壊されたら、停止している原子炉が制御不能になるのです。全ての原子炉が制御不能になったら、どうなるか想像できると思います。
 このことに関して、原子力村の連中が、いくら原子力発電所の安全神話を唱えても、ミサイル攻撃まで想定していないので、答えは出せないと思います。しかも既に福島第一原発事故で安全神話は崩壊しています。

 有事には、中国やロシア、北朝鮮は、まず、日本の原子力発電所に対して集中攻撃をするでしょう。これで日本民族は壊滅です。
 戦争にはルールは無きに等しいのです。
 何人か生き残ったとしても、放射能により国土は汚染され、日本はとても人間や全ての生物が生存できない環境に変貌します。

日本の原子力発電所の所在地(左)と
もしも原発がミサイル攻撃された場合の放射能汚染区域(右)

徴兵と石破発言

 徴兵にしても、いくら防衛のためだとしましても、現在、国に命を捧げるような国民はどれだけいるでしょうか。
 戦前は、天皇陛下のためとか、国や家族を守るために、進んで徴兵に応じた国民が多かったと思いますが、現在のような象徴天皇の核家族社会では、すべての国民は「自分ファースト」であり、国のために死ねる国民は圧倒的に少ないでしょう。

 石破氏は7年以下の懲役・禁錮では甘すぎると主張
「石破自民幹事長もくろむ『軍法会議』」
「平和憲法に真っ向背反」
 それでも、石破 茂幹事長(当時)はかつて「『これは国家の独立の為だ、出動せよ』と言われた時に、いや行くと死ぬかも知れないし、行きたくないという人がいないという保証はどこにもない。だから国防軍になったらそれに従えと。それに従わなければその国にある最高刑がある国なら死刑。無期懲役なら無期懲役。懲役300年なら懲役300年。そんな目に逢うなら出動しようかと。人を信じないのか、と言われるけど、やっぱり人間性の本質から目を背けちゃいけない」


 石破発言の発端となったのは、東京新聞の2013年7月15日付朝刊。
 このようにしてまで強制的に徴兵した兵士が、まともに戦えるのか疑問が残ります。戦争で国民が死んでも敵のせい、批判勢力は非国民、都合の悪いところは取材禁止。大切なのは正義の旗でも権力維持でもなく、国民の命と暮らしであることなど、好戦的な一部の国民やマスコミには分からないでしょう。

「今が最大の危機であるという認識は作られたものではないかと私は思っています。戦争になるぞという時代精神が浮上し、非戦という発想が後景に退いていることが心配です」(元航空自衛隊司令・林吉永さん「朝日」)

 先の戦争末期の日本の軍部、支配者は本当に馬鹿でした。
 いや狂っていたとしか思えません。
 既に勝算なんて微塵もないのに負け戦を続けた結果、大空襲や原爆、占領地域での玉砕と沖縄戦、尊い命を数多く無駄に捨て去ったのです。

昭和天皇を騙して負ける戦争を始めた軍部

昭和天皇を騙して負ける戦争を始めた軍部

 蒋介石を1ヶ月で屈服させると始めた日中戦争もすでに4年経過した頃。
 アメリカは日本との貿易を中止するなど経済制裁。
 ここで軍部は、昭和天皇にアメリカとの開戦の必要があると上奏。
 昭和天皇は軍部に「蒋介石を1ヶ月で屈服させると言ったではないか」と問うと、軍部は「中国は広いためもう少し日数かかります」と弁解したが、昭和天皇は「太平洋はもっと広いではないか」と軍部を叱責。



 そして現在、中国やロシアに宣戦布告でもしようものなら、たちまち原発に対する集中攻撃を浴び、兵糧攻めに遭いさらに鉄鉱石が輸入できず、エネルギー不足に陥り、日本はまともに戦わずして敗戦するのは確実です。
 一方、金儲けのための縄張りを失う財界や富裕層、その腰巾着らにとっては、日本の敗戦はたまったものではないでしょう。

 戦後、80年経っても北方領土問題が解決しないのは、自民党政権が長期政権を維持するために、北朝鮮による日本人拉致問題と同様に、北方領土問題を、自民党政権やその支持者が反共プロパガンダに利用していると言わざるを得ません。

 富裕層が支配する国で、支配者である富裕層の財産と生命を守るために、貧困層は命をかけて戦う必要など全くないのです。
 自分の命は自分で守りましょう。
おわり

<トルーマン回顧録>より 米国トルーマン元大統領 (終戦時の米国大統領)

 日本は、天皇をボスとする封建組織のなかの奴隷国であった。そこ(敗戦)で、一般の人は、一方のボス(天皇)のもとから、他方のボス(占領軍)のもとに切りかわったわけである。彼ら多くの者(一般人)は、この切りかえは、新しい政権のもとに、生計が保たれていければ、別に大したことではないのである。

 2025/9/15 石川栄一
目次
誤字脱字そして悪文、ご容赦ください。Sorry for being bad at grammar.
訓練され躾けられた熊たち熊の
(出典)nordicmuse.com
(出典)123RF
(出典)くまくま写真館
(出典)カドリー・ドミニオン
(出典)くまくま写真館
(出典)くまくま写真館
(出典)ロレンス編集部
(出典)ロレンス編集部
熊もここまで来るとペットです。
千島列島の島々
元維新・丸山議員は北方領土問題について「戦争をしないとどうしようもなくないか」「取り返せない」などと発言して除名された。
戦争を始めた者は戦争には行かない
戦争を始めた者は戦争には行かない
誤字脱字そして悪文、ご容赦ください。Sorry for being bad at grammar.
熊より怖い人間 1億人殺した独裁者たち
知床連山はヒグマの 生息地です。

岩尾別温泉と知床のヒグマ

(2025年)8月14日、北海道・知床半島にある羅臼岳の登山道を下山中だった男性がヒグマに襲われ、15日に遺体が見つかった。200メートルほど後方を歩いていた友人が駆け寄って抵抗したものの、クマは男性を茂みに引きずり込んだという。(AERAデジタル)
 先日、こんなニュースが飛び込んできました。
 そもそも知床半島は、世界有数のヒグマの高密度生息地域として知られ、ヒグマと人との距離も近く、私が20代(約50年前)の頃、知床半島には北海道のヒグマの70%~80%が生息していると言われていました。
 そこで、ヒグマから言わせて貰えば、

 知床は俺たち、私たち、僕たち、我々の縄張りだから、何を取って食おうと、人間にとやかく言われる筋合いはない。
 人間はヒグマが生息する土地に対する家宅侵入者であり、罰するのは当然だ。 我々(ヒグマ)の仲間に対する目に余る誹謗中傷には我慢の限界を超えている。我々は中国人やロシア人、朝鮮人ではない。れっきとしたヒグマである。
 これからも我々を馬鹿にしたり粗末にする者どもに対しては、断固、毅然とした対応を取らざるを得ないと考えている。


 まあ、こんなところでしょうか。
 確実に言えることは、ヒグマには善悪の判断は不能だということです。
 人間が近づくとヒグマが逃げるのは、凶暴な人間が怖いから逃げるのです。

 その知床に、初めて行ったのは私がまだ中学生の頃の家族旅行でした。
 その時は、当時、岩尾別温泉に建っていた「国鉄・山の家」までで、登山ではありません。山の家と申しましても、平屋の掘っ建て小屋で、数台の二段ベッドが設置してあり、まるで国鉄の寮のような作りでした。

 はじめは、バスで岩尾別温泉に着いたとき、知床のホテルに泊まれるものだと思って歩き出し、ウキウキしていましたが、ホテルの玄関を通り越して、前方50メートルくらいの場所にあった山の家に向かったときは、子供ながらガクッときました。
 さすがに、貧困層の国鉄職員家族とは思いませんでしたが、ホテルに宿泊している客が、山の家の窓から中を覗きに来るのにはビックリしました。最初はヒグマが中を窺っているのかと思いましたが、ヒグマが浴衣を着ているわけがないので安心はしました。しかし赤の他人に覗かれるのは気味が悪いものです。

 食事は、当時の国鉄が山の家の管理を委託していたホテルから運んで来ました。記憶では、昼食はうどんで、夕食はホテルの食堂だったと思います。
 更に驚いたのは、外部のトイレです。トイレの管理も国鉄がホテルに委託しておりましたが、積もり積もって山のようになっていたのです。
 これには私の父親も驚き、ホテルに抗議をしていました。ホテル側もひたすら謝るだけで、その後のことは分かりません。

知床・岩尾別温泉『木下小屋』
名前の由来は、昭和初期に知床連山の登山道を開拓した木下弥三吉の名からとったそうです。”「写真」北海道 源泉掛け流し温泉めぐり”
動画 地の果て知床

羅臼岳登山

 最初、羅臼岳登山(主催 北工会秀岳会)を行ったのは、1970年8月でした。
 この時は、羅臼岳登山口の木下小屋に宿泊する予定でしたが、小屋は満室で、しかも我々のメンバーも7人と多かったので、やむを得ず、木下小屋の前にテントを張って泊まることになりました。

 当然、煮炊きも、屋外でやらざるを得ません。
 私たちは、テントのすぐそばを流れている川の水で米を研いで、川の水で豚汁を作ってみんなで楽しく食事をしたあと、すぐ上の方を見ると、木下小屋の前の露天風呂に数名の登山者がワイワイ騒ぎながら入浴していて、その露天風呂から溢れたお湯が、我々が煮炊きに使った川の水に流れ込んでいたのです。

木下小屋の露天風呂
”「写真」北海道 源泉掛け流し 温泉めぐり”

 露天風呂に誰も入っていなければ、上の写真のように綺麗なお湯なのですが、登山をしたあとの登山者の身体は汗まみれで、とても綺麗なお湯とは決して思えません。しかも、そばに洗面器が複数、置いてあるということは、身体を洗い流したお湯も、川に流れ込んでいたと言うことになります。

 これについては、私たちのリーダーで先輩が、山行のメンバー一人一人に謝っていました。もう少し木下小屋の露天風呂から下流の方でキャンプをすれば、温泉の排水も濾過されていたと思います。
 翌日、幸運にも腹痛や体調不良を起こしたメンバーは一人もいなかったのですが、天候の方が不良で、羅臼岳山頂から見えるはずの北方領土、国後、択捉島はおろか、残念ながらガスと雲以外は何も見えなかったですね。

 山行のほうは、岩尾別温泉の登山口・木下小屋から羅臼岳ピストンでしたので楽なことは楽だったのですが、天候がいまいちで、8ミリを撮す対象が風景ではなく、秀岳会のメンバーだけというのも素っ気なく辛いものです。

 札幌から知床まで420kmの距離を、列車とバスで、はるばるやってきたのに誠に残念でしたが、前日の斜里岳山行だけでも天候に恵まれたので、今回の秀岳会山行は、たいへん満足しました。
 年齢的にも当時私が一番若く、またカメラマン(8ミリ動画)の私を、リーダーも気を遣ってくれたのには、たいへん嬉しかったですね。
 このときも、ヒグマ生息地のど真ん中を往復する山行でしたので不安が付きまといましたが、そのヒグマの気配はまったく感じられませんでした。
 ヒグマの方は、多勢に無勢で勝ち目がないと観念して、鳴りを潜めていたのかも知れません。

知床『羅臼岳~硫黄山』縦走 1973年7月19日~24日
『硫黄山山頂』私(右後ろ)
動画 続・地の果て知床

 それから3年後の1973年の夏、秀岳会に学生や院生のメンバーが増えて、私も中堅の登山家の仲間入りをしていました。
 また、秀岳会を立ち上げた初期のメンバーは、他の部署に異動したため、私が会長代行のように会の運営をしていました。

1973年 知床『羅臼岳~硫黄山』縦走のコース(赤矢印)

●縦走1日目「木下小屋泊~羅臼平」 ●縦走2日目「羅臼平~二つ池」
●縦走3日目「二つ池~硫黄山」 ●縦走4日目「硫黄山~知床硫黄山登山口」 知床硫黄山登山口(カムイワッカの滝)に下山し、ヒッチハイクでウトロへ。(地図は下が北)

 1973年の知床『羅臼岳~硫黄山』縦走のときも、ヒグマの生息地の真っ只中を縦断したのですが、この時もヒグマの気配どころか、その存在自体も全く感じられない静かな縦走でした。硫黄山の山頂では、風の音だけがヒューヒューと聞こえたくらいです。
 天候ですが、岩尾別温泉登山口の木下小屋を出発してから硫黄山手前までは、雨には当たらなかったのですが、曇り空で天気はあまり良くなく、周りの景色はほとんど見られなかった記憶があります。

 硫黄山付近まで来たときは、雲が切れ始めたので、知床連山の景色も展望できるようになったときは感激しました。翌朝、天地を真っ赤に染めるように昇ってきた朝日が目に焼き付いています。
 これは半世紀以上も前の思い出です。私は歳のため、もう知床に行く機会はないと思います。従って、知床のヒグマにも会うことはないでしょう。

動物王国、北海道占冠村で生息する動物のポストカード
ヒグマの親子 "「写真」撮影者 門間敬行"
岩峰の芦別岳山行

ヒグマ対策

 私がヒグマと出会ったのは、前もお話しした事がありましたが、芦別岳山行(1970年9月19日~20日)の時で、旧道の北尾根でヒグマと遭遇しました。
 幸運にも、こちらが8名と多勢だったせいか、ヒグマが起ち上がったかと思ったら、急な斜面、しかもハイマツの上をポンポンポンと飛ぶように跳ねながら降りていきました。すごいスピードでビックリしましたね。
 あのスピードで追いかけられたら、まず助からないでしょう。そもそも人間がハイマツの上など走れません。
 ヒグマとの距離は、50m位だったと思います。

 私たちは30分くらい間を置いてから出発したところ、数名の若い女性のグループに「ヒグマが出たので注意しましょう」と注意したら、その女性達は、ヒグマを恐れたのか私たちの後を付いてきたのです。
 私たちのグループも皆、若かったので、今回はヒグマに感謝です。
ヒグマの親子(イメージ) ”Pinterest”

 ここでもう一度、ヒグマ対策を一言、述べておきます。
 ヒグマは雑食ですので当然、場合によっては人間を襲います。
 そのため登山では、熊除けの鈴や笛を鳴らしながら登りますが、場合によっては、ロケット花火などを打ち上げることもあります。
 ヒグマは大きな音や、火薬の臭いを嫌うようです。

 しかし、運悪くヒグマと対面したときは、睨めっこしましょう。死んだふりはいけません。物を差し出すのも、普通はダメです。
 そこで、ダメでない物の出し方ですが、自分のリュックサックをヒグマの前に置いて逃げるのも効果があるようです。
 どのようにするかですが、ヒグマは独占欲が強く、自分が得た獲物(この場合、リュックサック)は絶対に離さないと言われています。
 人間は、ヒグマがチュックサックの中をゴソゴソ、ガブガブと漁り始めたすきに、静かに、ゆっくりと退却するのです。

 もし、ヒグマにあげる物がなくなったら「次はお前の番だ」というように、食われてしまうかも知れません。従って、ヒグマが出没している山の単独山行や少人数での山行は厳禁です。どうしても登山を実行したければ、大人数での登山にすべきです。
 また、ヒグマと遭遇した場合、肩車をして助かったという例や、コウモリ傘を開いて助かったという例もあります。ヒグマには、自分よりも大きなものは襲わないという習性があるようです。


熊より怖い人間 1億人殺した独裁者たち 
 ヒグマは避けることはできますが、避けることができないのが独裁者です。
 つまり、ヒグマが人を襲うのは、子育てや生きるためであり、人間のように、お金のためや怨恨、愉快犯のように他人を殺すことは滅多にありません。
Wars, conflict - it's all business.
One murder makes a villain;
millions a hero. Numbers sanctify.
"Monsieur Verdoux"
 自国の利益のための戦争や主義主張を貫くための大量殺人、あるいは失政で国民を平気に殺してしまった独裁者達の一例を以下(下の欄)に紹介します。
 これからも何事もなく、平和な余生を送りたいものです。
おわり
 2025/9/4 石川栄一
目次
誤字脱字そして悪文、ご容赦ください。Sorry for being bad at grammar.
1億人殺した独裁者たち
Mass murder rankings
第1位 毛沢東(中国)

栄えあるグランプリに輝いたのは毛主席 犠牲者『6,000万人』

 毛沢東(1893年12月26日-1976年9月9日)は、日中戦争に勝利し、中華人民共和国を成立させた後、農業・工業を振興するため大躍進政策を実施します。
 その最中、中国共産党の幹部が、農業の進展を視察に行ったとき、雀が農作物を食い荒らしているような光景を目にします。そこで雀は害鳥だから駆除しなければならないと毛主席に進言します。

 毛主席が党幹部の進言を受け入れた雀対策の結果、数年後、ようやく雀が減少します。ところが、雀が食べていた害虫が大量に増殖し農作物に寄生したため、中国全土が大飢饉に襲われてしまいます。
 その結果、推計2,000万人~5,000万人が餓死したという説もあるのです。
 さすがの毛主席は責任をとらざるを得なくなり、国家主席を辞任してしまいます。日中戦争で日本軍に勝利した偉大な英雄、毛主席でしたが、害虫には歯が立たなかったということでしょうか。しかし、毛主席はこの程度のことではへこたれません。
 大躍進政策の失敗のために国家主席の地位を、劉少奇(りゅう しょうき)党副主席に譲った毛主席でしたが、復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動や大衆を扇動して政敵を攻撃させます。
 いわゆる文化大革命「全称は無産階級文化大革命」です。
 その結果、重要な文化財などは徹底的に破壊され、各地で中国人民同士による大量の殺戮が行われ、その犠牲者の数は、数百万人から1,000万人以上ともいわれています。

第2位 ヨシフ・スターリン(ソ連)
鋼鉄の男、ヨシフ・スターリン同志 犠牲者『2,000万人』

 ヨシフ・スターリン(1878年12月18日-1953年3月5日)は、レーニンの後継者争いにおいて、ソビエト連邦共産党(以下共産党)ナンバー2のトロツキーを暗殺したことに始まり、ブハーリンやルイコフなど、共産党幹部らを片っ端から粛正していきました。
 その内訳は、共産党国防担当の人民委員代理11人全員を「粛清」、赤軍内部でも、5人の元帥の内3人を「粛清」さらに、共産党最高軍事会議のメンバー80人の内75人を「粛清」、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人を「粛清」、赤軍軍団司令官85人の内57人を「粛清」、師団司令官195人の内110人を「粛清」、准将クラスの将校の半数を「粛清」、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」。

 このように共産党内の政敵を片っ端から「粛清」銃殺。
 赤軍は、スターリンの政敵だったトロッキーが創設および指揮した部隊ですから、幹部が粛正されるのは当然かも知れません。

 さらに、ソビエト連邦で「赤軍の至宝」とまでいわれたトハチェフスキー元帥なども銃殺してしまったたため、第二次世界大戦の独ソ戦前半戦は、ナチスドイツ軍によって、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)は陥落、そしてモスクワまで侵攻されてしまい、スターリンはヒトラーからボッコボコにされるという始末です。
 ナチスドイツに勝利した第二次世界大戦後も、スターリンは、信用できない政敵や人民を、片っ端からシベリア流刑、強制収容所送り。挙げ句の果てに、共産党秘密警察の幹部までも処刑。その後任も処刑。ここまでくると、正気とは思えません。
 処刑した総数ですが、誰も信用できなくなったスターリンご本人でさえ、何人殺したか調査不能で、犠牲者は50万人から2000万人まで諸説あります。

第3位 アドルフ・ヒトラー(ナチスドイツ)

オーストリア帝国出身のナチス総統閣下 犠牲者『1,100万人』

 アドルフ・ヒトラー(1889年4月20日-1945年4月30日)は、狂信的なドイツ民族至上主義者(ドイツ人ファースト)であり、その外交政策と人種主義に基づく政策は、全世界を第二次世界大戦へと導き、アウシュヴィッツを始めとする強制収容所を各地に設立。
 ナチスの支配地域では、ユダヤ人などに対する組織的な大虐殺「ホロコースト」を引き起こした独裁者の中の独裁者で超有名人。特にナチスから「劣等民族」として白羽の矢が立った国民は、その標的にされてしまいました。
 現在、誰かさんが、日本人ファーストと唱えている我が日本人も、ナチスから見れば劣等民族だったとのことです。ナチスに限らず、欧米人から見れば、日本人はアジアの黄色い猿としか見えなかったのでしょう。

 そして、ポーランドでは、ユダヤ人総人口の9割がホロコーストで殺害され、ユダヤ人(600万人)、ドイツ・シンティ・ロマ人(約20万人)、ポーランド人、セルビア人(50万から120万人)、スラブ人(ロシア人、ウクライナ人など)、知的障害者や精神病患者、同性愛者、黒人、エホバの証人、共産主義者、無政府主義者、反ナチ運動家なども殺害したとされ、その合計は、900万人とも1100 万人とも言われています。
「独裁者の末路」 ソ連軍(赤軍)とのベルリン市街戦において、赤軍の報復攻撃が激しくなると、ナチスドイツの偉大な英雄だったアドルフ・ヒトラー総統閣下は、ベルリン陥落目前の1945年4月30日、夫人のエヴァ・ブラウンと共に、呆気なく自ら命を絶ってしまいます。
 ヒトラーの遺骸は、ソ連のKGBによって秘密裏に埋められましたが、1970年に掘り起こされ、完全に焼却されたあとにエルベ川に散骨されたとのことです。

第4位 ポル・ポト(カンボジア)
クメール・ルージュ(共産党)書記長 犠牲者『300万人』

 ポル・ポト(1925年5月19日-1998年4月15日)は、民主カンプチア首相・カンボジア共産党中央委員会書記長、クメール・ルージュの精神的指導者。
 1970年3月、カンボジア王国ではアメリカに支援されたロン・ノル将軍が軍事クーデターを起こし、カンボジア王国国家元首シハヌーク国王を追放してしまいます。(ロン・ノル軍事独裁政権樹立)

 北京にて、亡命したカンボジア王国シハヌーク国王は挽回を図り、クメール・ルージュ(共産党)のポル・ポト書記長と接触します。
 シハヌーク国王派とポルポト書記長のクメール・ルージュ(共産党)の攻勢により、1975年4月1日、ロン・ノル将軍はアメリカに亡命し、ロン・ノル軍事独裁政権は崩壊します。
 1976年5月13日、ポル・ポト書記長は民主カンプチアの首相に正式に就任し、地方では、アメリカの傀儡、ロンノル軍事独裁政権の残党や支援者らに対する徹底的な報復と大虐殺を始め、完全な国家の改造を行います。前政権の残党狩りや資本主義の協力者に対する凄惨を極めた大虐殺には、ライフルや機関銃で武装した若い少年兵も動員されました。
 ポル・ポト首相が目指したのは「原始共産主義社会」であり、資本主義の要素を全て否定することでした。

 1975年から1979年の間の死者数300万人にも上ったとされていますが、実際には諸説あり、80〜100万人程度とする説もあります。
 その後、カンボジアではポル・ポト首相は失脚し、ベトナム共産党の影響を強く受けたヘン・サムリン政権(カンボジア人民共和国)が成立します。

第5位 エンヴェル・パシャ(トルコ)

オスマン帝国の軍人で青年トルコ革命指導者 犠牲者『200万人』

 エンヴェル・パシャ(1881年11月22日-1922年8月4日)は、第一次世界大戦の中でオスマン帝国の軍人としてロシアと戦闘に入ります。
 そしてロシアによって大打撃を被ったため、ロシア軍に協力したという理由でアルメニア人をシリアに強制移住させ、その過程で200万人にのぼるとされるアルメニア人がトルコ軍によって虐殺されたといわれています。これがアルメニア人大虐殺です。トルコは、アルメニア人大虐殺によって、国際的な非難を受けていますが、現在でもこれを認めていません。

 エンヴェルは、ソ連の赤軍による掃討作戦によって、次第に東方へ追い込まれていき、1922年8月4日にフェルガナ盆地東部のアビデルヤ村で休憩中に、赤軍の奇襲を受けます。彼はなお付き従っていた30人の部下とともに機関銃を乱射する赤軍に向かって最後の突撃を敢行し、壮烈な戦死を遂げたといわれています。
 ただし、彼の死の状況をめぐっては、ほかにもいくつかの異説があります。

第5位 レオポルト2世(ベルギー王国)
コンゴの人口の70%減少させた。犠牲者『200万人』

 ベルギー国王レオポルド2世(1835年4月9日-1909年12月17日)は、即位前から植民地獲得に強い関心を持ち、植民地を物色するために、中近東や北アフリカ、セイロン島、清国(中国)などを旅行してまわりました。

 帰国後、ベルギー王国上院において、植民地獲得を熱心に訴えましたが、ベルギー王国には、植民地に関心を持つ上院議員はあまりいなかったといいます。
 中南米のグアテマラ植民地化の失敗以来、ベルギー王国国民も議会も、帝国主義政策(植民地政策)を支持しませんでした。

 そんな中、アフリカのコンゴ(現 コンゴ共和国)は、天然ゴム、象牙、ダイヤモンド、金、銀など魅力的な資源が数多くあるにもかかわらず、未開拓の地であったため、レオポルト2世はここに目をつけます。
 1884年、ベルギー王国が、国としてコンゴに進出することは、列強の緊張関係の中で認められず、あくまで「レオポルト2世の私領」として進出することになります。これがコンゴ自由国の成立です。

 莫大な私財を投入していたレオポルト2世は、その回収を急ぎ、1893年まで250トン足らずだった天然ゴムの生産量を1901年までに6000トンにまで高めさせた元祖ブラック企業的経営。
 過酷な圧政によって、コンゴの人口は、1885年にコンゴ自由国が建設された時点(3,000万人)と比べて70%減少し、900万人にまで減少したそうです。
誤字脱字そして悪文、ご容赦ください。Sorry for being bad at grammar.
電停・バス停物語2 笑う犬と発情期の雄馬
白黒写真をカラー化
1958年 札幌市北32条西5丁目 当時の自宅周辺
当時、土地の価格は 6,000円/坪 バブル期には 900,000円/坪
自宅があった場所の現在

「チャロ」と「タロ」

 写真(上)は、私が小学5年生(11歳)の秋に父が新築した家です。当時はまだ区政ではないので、住所は札幌市北32条西5丁目でした。
 家の前に立っている二人は、私の従姉妹で、一歳年上と同年齢の女の子で、新築した家を見に来ました。

 家の右手前に茶色の犬が二匹いますが、我が家の飼い犬で名前は「チャロ」と「タロ」と言います。当時はまだ放し飼いをしても問題になりませんでしたが、大きい方の「チャロ」は数年後に家を出て行きました。自由になりたかったのかも知れません。
 一方「タロ」の方は、野犬防止のため蒔いてあった毒肉を食べて死んでしまったのです。この時は本当に可哀想でした。それは、放し飼いをしていた「タロ」が苦しそうにして助けを求めるように自宅に帰ってきたのです。

 近所の子供らが、「タロ」が毒肉を食べたのかも知れないというので、私の父が毒を消すために、石けん水を「タロ」に大量に飲ませましたが、もう手遅れで、毒が体中に回った後だったようです。「タロ」は、自宅に帰ってきてから数分後に死んでしまいました。強力な毒肉を食べたのでしょう。

 父は「タロ」に死に水(末期の水)を与えて、その後、自宅の花畑に「タロ」を埋葬してあげました。「チャロ」も「タロ」も悲しい別れになったので、私はそれから暫くは犬を飼うのはやめることになります。

白黒写真をカラー化
1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』
左側には少し傾いたバス停が見えます。名称は「○○商店前」
北32条西5丁目通りの現在 1

牛舎と牛乳

 写真(上)は、1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』で、雪解けの頃(おそらく3月下旬)に撮ったもので、バス通りでしたが、まだ舗装はされていません。右側の奥にサイロが見えますが、当時は牛舎や農耕馬も多く、自宅の前にはデントコーン(飼料用トウモロコシ)畑がありました。

 夜になると、どこかの牛舎から、牛の鳴き声「モオオーオー」が聞こえてきます。酪農家の牛舎に直接、牛乳を買いに行ったこともあります。
 牛舎では、搾った牛乳を、床に作った1メートル四方の大きなコンクリート製の升に溜めて置いて、そこから一升枡ですくって瓶に入れてくれましたが、いま思えば、あまり清潔ではなかったように思えます。
 まあ、牛舎から買ってきた牛乳は、直接飲まずに沸かして飲んだので、殺菌されるから問題はなかったのかも知れません。


バス賃、埋蔵金

 北32条西5丁目通りをまっすぐ北に進むと、麻生町(当時は三角屋根の家がたくさん並んでいて麻生団地とも呼ばれていました)、さらに進むと国鉄(当時)新琴似駅に到着します。
 路線バスは、新琴似駅方面ではなく、麻生町から少し左斜めに折れて、屯田方面に向かいます。バスは途中、私の母校の新琴似中学校前を通りますが、バス通学ではなく、約3キロの道のりを徒歩、あるいは自転車で通学しました。

 雨の日など、バスで通学した場合、市営バスのバス賃は、新琴似駅の踏切手前で降りれば5円、踏切を越えて中学校前(停留所名は新琴似神社前)で降りると倍の10円に跳ね上がりますので、5円節約のためには踏切手前で降りなければなりません。
 市営バスの運転手からは「5円くらい大したことはないじゃあないの」と言われたこともありますが、収入源の乏しい子供にしてみれば、この5円の差は大きいものです。
 一方、中央バスを利用すると、その日によって、どういう訳か中学校前で降りてもバス賃は5円だったときもあります。これはバスの車掌さんが負けてくれたのか、それとも車掌さんが新前だったのか、もしくは、中学生なのに、小学生と間違えていたのかも知れません。

 中学校では、生徒のほとんどは、併設されている隣の新琴似小学校からの移行ですので、私のように他の小学校からの入学は、よそ者のように扱われたように思います。中学校では自慢ではありませんが、勉強したという記憶は皆無です。
 毎日のように、ステレオアンプやスピーカーボックス作りに励みました。

 当然のことながら、中学生の私には収入源はありませんので、雑品屋(現在のリサイクル業者)巡りをします。当時も、各家庭で不要なものを回収する業者ですが、その雑品屋でも不要なものが出ると、倉庫に山積みされます。

 そこで、私はその倉庫の中から埋蔵金を漁るように、ラジオやアンプの真空管や抵抗、コンデンサーなどを探し出します。特に、高価な電源トランスや出力トランスを見つけたときは、宝物を掘り当てたように嬉しかったですね。
 雑品屋の主人も、子供の私からお金を取るようなことはなかったように記憶しています。誰から見てもお金を持っているようには見えなかったのでしょう。

 このような事を繰り返し、中学校在学時には10台以上のステレオアンプ、メインアンプやスピーカーボックスをつくり、中学校の文化祭にも出展したこともあります。しかし通知箋は非常に悪く、他の生徒の不幸を私一人で背負ったようなものでしたが、理科と数学、図工だけは負けませんでした。

市電「北33条」電停、1963年(昭和38年)に麻生町まで延伸。
(出典)ただいま鉄道写真スキャン中
1972年 地下鉄南北線開通に伴い地下鉄平行部分の本路線の市電廃止。

市電延伸

 札幌市電が北24条から麻生町まで延伸されたのは、1963年(昭和38年)になります。その後、市電は新琴似駅前まで延伸されます。一時、非電化として開業し、日本唯一の路面ディーゼルカーが走っていたこともありました。

 ディーゼルカーですので、当然、静かな電車と異なり、走行しているときは、ゴーとかガーとか相当な音を出します。特に電車道路沿いの住民は騒音に悩まされたかも知れませんが、利便性が良いので反対運動は起きなかったと思います。
 1年後くらいに電化されたので、ディーゼルカーは電車に切り替えられました。

笑う犬(出典)ドッグトレーナー
 犬が「笑っている」ように見える時、それは一般的にリラックスしている、楽しんでいる、安心している、あるいは飼い主との良好な関係を楽しんでいることを示しています。このような行動を見せているときは、犬も幸せで快適な気持ちでいることが多いです。(出典)犬のしつけ教室

笑う犬

 さて、笑う犬ですが、私が北33条で電車を降りると、商店の前に犬が座っていて、その顔を見たら、何か笑っているように見えたのです。
犬が笑っているように見える理由は、次の4つがあるようです。

  ■ 理由1『飼い主の真似をしている』
  ■ 理由2『飼い主に喜んでもらいたいから』
  ■ 理由3『リラックスしている』
  ■ 理由4『「敵意はないよ」とアピールしている』

 単なる通行人の私は、飼い主ではないので、理由3と理由4が該当すると思われます。ところで、笑顔に見えるのは「唸り」もあるようです。
 しかし、私は犬に、ちょっかいなどを出していないので、唸られる覚えは全くありません。まさか私を馬鹿にして笑っていたとも思えませんので、やはり笑う犬は『リラックス』か「敵意はないよ」とアピールしていたのでしょう。

 また、人間の「笑い声」は犬にとっても癒しにもなるそうです。
「笑う門には福来る」 「笑いは百薬の長」ということわざがある通り、笑いには、 心にも体にも良い「健康効果がある」と言われています。
 これからも笑いがあふれる人生と社会になればよいと思うのです。

白黒写真をカラー化
1958年頃の札幌市北32条西5丁目通り『東方面』
西5丁目通りを走る市営バス。手前、左は鳩小屋、道路の向こう側は野原
北32条西5丁目通りの現在 2

発情期の雄馬

 写真(上)は、自宅二階の窓から西5丁目通りを走る市営バス撮った写真で、道路が舗装されていないので、砂埃が巻き上がっています。左下の小屋は、向かいの家の鳩小屋で、数十羽の鳩を飼っていました。

 向かいの家の本業は雑貨店で、食品や小間物類を扱っていましたが、あまり流行っていなかったように記憶しています。おそらく、商売よりも鳩の世話の方が重要だったのかも知れません。
 道路の向こう側の野原では、キリギリスをたくさん捕った思い出があります。
 道路の両側は側溝になっていて、大雨の時以外は水はなく干上がった状態でした。また、夜、自転車で走っていたとき、対向車のヘッドライトに目がくらみ、側溝に落ちたこともありました。

 バス通りの西側(手前)は、デントコーン畑だったところで、時々、馬を放牧しており、また自宅から自由に出入りすることができました。
 私が小学校の帰り、デントコーン畑に放牧されていた馬と目が合ったとき、なんと馬のアソコがロッドアンテナのように、ニョキニョキニョキと地面にくっつく位まで伸びたのです。

発情期の雄馬(イメージ)
「出典」馬に餌をあげたら突然発情した(youtube)

 人間の子供が馬に襲われた話など、あまり聞いたことはありませんが、緊迫した雰囲気になり、私はヒグマにでも出会ったように、おそるおそるその場を通り過ぎ、自宅にたどり着き、胸を撫で下ろしたのです。


犬猫の寿命
 犬猫のペットの寿命は、最長で20年位と思いますので、飼う場合は、彼らのために飼い主の寿命も考慮しなければなりません。たとえば、飼い主の年齢が、50代半ばを過ぎてから犬猫を飼う場合は、彼らより先に寿命が尽きてしまう恐れがありますので、ペットにとっては好ましいことではないと思います。

 つまりペットよりも、飼い主が先に死んではならないということです。
 ペットにとっては、死に水を取ってくれる飼い主が存在することが一番幸せなのです。しかし、飼い主が長生きしても、認知症になったらペットの世話もできなくなるかも知れません。
 また、ペットも認知症になると「認認(にんにん)介護」になる可能性もあります。飼い主も、ペットも元気に長生きしましょう。
おわり
 2025/8/24 石川栄一
目次
誤字脱字そして悪文、ご容赦ください。Sorry for being bad at grammar.
自宅があった場所の現在
札幌市北32条西5丁目 自宅があった場所(茶色の家)
(Google Street View)
北32条西5丁目通りの現在1
札幌市北32条西5丁目通り『北(新琴似)方面』
(Google Street View)
北32条西5丁目通りの現在2
札幌市北32条西5丁目通り『東方面』
(Google Street View)
笑う犬
(出典)WanQoL
(出典)犬の気持ち
(出典)UCHINOCO
(出典)笑う犬 | GANREF
(出典)PIXTA
笑う馬
(出典)Ameba
ドイツ ノイッフィンジング 笑う3頭の馬
(出典)アフロプリント
(出典)iStock
(出典)Pinterest
(出典)帽子被ったお馬さん(笑う)
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電停・バス停物語1  歩くバス停
全久寺まつり2025 北海道当別町
フルーティー 2025/07/06

 お盆は、いつからいつまでと聞かれますと、正確にはよく分からない人がいると思います。私もその一人なんですが、調べてみたら、新暦8月(月遅れの盆)の場合、毎年8月13日(迎え火=盆の入り)から8月16日(送り火=盆明け)までの期間と決まっているとのことです。

 8月13日 迎え火(盆の入り) 8月14日~15日 (中日)
 8月16日 送り火(盆明け)



 上の映像の全久寺は私の又従兄弟が住職をしている禅寺で、子供の頃はよく遊びに行った記憶がいまでも鮮明に残っております。
 当時は当然のことながら、お寺でも子供が多く、男子が4人、女子が3人の7人兄弟で、男子のうち3人は、駒澤大学を出て永平寺で修行を積み、仏法の道を歩んでおります。(他界を含む)

 また長女は、私の母と従姉妹同士でいつも自宅に遊びに来ていましたが、病のため40代で亡くなりました。一番下の女の子は、私がお寺に遊びに行くたびに、いつも広いお寺の中を二人で走り回ったのを思い出します。

 次女は現在、私の自宅近くで暮らしており、時々連絡があり、その度にテレビやオーディオ機器のメンテナンスのお世話などをしています。
 私は、全久寺の檀家ではありませんが、住職とは親戚であるため、なかなか縁が切れません。先日も住職が来られたので、仏壇にお経を上げていただきました。

バス停留所案内表示板(イメージです)

歩くバス停

 私が北海道大学に在職中、東京のある大学に出張したときに、そこの大学講師から聞いた話です。講師は私と同じ研究室の出身でした。
 大学の前にバス停があったのですが、ある日、そのバス停(バス停留所案内表示板、以降バス停案内板と略)がいつの間にか消えたというのです。

 バス会社が調べたところ、バス停案内板は、100mくらい先の方に移動していたことが分かりました。バス停案内板のコンクリート製のベースの重量だけでも約40Kgもあるものを、誰がどうやって動かしたのか調べたら、そこの大学生が、自分が暮らしている学生寮の前まで歩いて運んだと言います。

 もちろんこれは違法行為です。子供でも善し悪しが分かることを、大学生がなぜ分からないのか疑問です。しかし分かってやっていたら確信犯です。

 そこで『道路運送法』について少し調べてみました。
 路線バスは『道路運送法(昭和26年法律第183号)』に従い、停留所の名称や位置などを記載するよう定められています。

★道路運送法施行規則(昭和26年運輸省令第75号)
 第4条第1項 法第5条第1項第3号の事業計画のうち路線定期運行を行う一般乗合旅客自動車運送事業に係るものには、次に掲げる事項を記載するものとする。
 六 停留所の名称及び位置並びに停留所間のキロ程

 このように、バスの停留所の位置は国土交通大臣に提出して、許可を受けなければなりません。そして国土交通大臣は、その事業計画が輸送の安全を確保するために適切なものであるかどうかを審査しなければなりません。

★道路運送法(許可基準)第6条
 国土交通大臣は、一般旅客自動車運送事業の許可をしようとするときは、次の基準に適合するかどうかを審査して、これをしなければならない。
 一 当該事業の計画が輸送の安全を確保するため適切なものであること。

 そして、バス停の位置を変えるということは、事業計画を変更するということになるので、国土交通大臣の認可が必要です。

 今回のように、バス停案内板を勝手に動かした場合は、道路運送法違反に加え、利用者に誤った停留所位置を教えたという点で、偽計業務妨害罪。さらに案内表示板を持ち去った場合は、窃盗罪にも該当するかも知れません。

 大学生はその後どうなったか、大学の講師は話しませんし、私もばかばかしくて聞く気にもなれませんでしたが、おそらく、バス停案内板を元の場所に戻して一件落着になったと思われます。
 ちなみに、運行中の路線バスについても、所定の停留所以外の場所で、客を乗降させたら当然『道路運送法』違反になります。

 従ってバス停案内板を勝手に移動させられた場合でも、路線バスは『道路運送法』で定められた所定の停留所に停車することになりますので、大学生が、重さ40Kg以上もあるバス停案内板を、頑張って自分の学生寮の前まで運んで置いたとしても、バスは停車できないため、全く無駄だったということです。

 それにしましても、若い人が100mくらいのバス停までの距離を歩くのが辛いのでしょうか。こういう性格の人物が、大学を卒業して社会に出たり、大学に残って教員になることのほうが、バス停案内板を移動させるよりも、もっと怖いと思うのです。

市電「西高校前」電停(昭和30年代の札幌市北4条西20丁目)
市電を待つ人々 白いジープは当時のパトカー(白黒写真をカラー化)

西20丁目電停の思い出
  私が生まれた頃の昭和20年代は、札幌市電「西20丁目 西高校前」の停留所のすぐ前が自宅で、一日中、市電を見ながら暮らしておりました。(現在、西高校は中央区宮の森に移転しております。)

 母の言によりますと、私が3歳くらいのある日、線路の上に座り込んでいたら、市電の車掌が電車から降りて、線路上にいた私を抱いて、自宅まで運んでくれたこともあったそうです。のどかな光景ですね。

 私が少し大きくなると、瓶のふたを線路に置いておき、その上を電車が通るとプレスされて平らになるので、パッチのように相手の蓋を弾いて、ひっくり返す遊びに使ったりしたものです。


祖父のお使い

 上の写真で「三和石炭株式会社」の看板のある二階建ての建物では、タバコも売っていました。近所ではこの店を「三和石炭株式会社」ではなく、「タバコ屋」と呼んでいました。

 そこには看板娘もいたようですが、私が行くたびに対応した店員は、いつもおじさんばかりだったように記憶しています。私の母が言うには、「タバコ屋」の看板娘は、50歳を超えても看板娘のままだったそうです。この店では、カメラのフイルムの販売や現像やプリントも扱っていました。

 私が5歳くらいの頃、祖父に頼まれて「タバコ屋」にタバコを買いに行き、駄賃として10円(札)も貰ったことがあります。(当時の10円の価値は現在の200円~300円くらいだと思います。)

 いまは、未成年者にタバコを売ると「未成年と知りながら販売した者には販売罪として科料50万円以下の罰金」が課せられますが、当時は5歳の子供でも、タバコを売って貰えました。私が「じいちゃん(祖父)から頼まれた」と言ったので売ってくれたのかも知れません。

 祖父から貰った駄賃10円で、鉱石ラジオを買いましたが、使い方が分からないので、近所の幼なじみの友達が持っていたカメラと交換したのですが、雑誌の付録のような紙製のカメラで、まったく使い物になりません。

 友達がいかにも、その紙製カメラで写真を撮っているような姿を見て、本当に写真が撮れるものと鵜呑みにした私がバカでした。
 早い話が、使い方が分からない鉱石ラジオと、使い物にならない紙製のカメラと交換しただけの話でした。

※ 鉱石ラジオやゲルマニウムラジオは、増幅回路を一切持たず、同調回路と検波回路のみで構成されているので、ラジオ放送を受信するには、受信感度が良い場所と比較的長いアンテナが必要でした。

大雨

 夏、大雨が降ると、まだ下水道が完備されていないので、電停付近の水たまりの深さが子供の膝くらいまでなりました。
 私は、その中を漕いで遊んだりしましたが、いま思えば、あまり綺麗な水ではなかったように思います。それは、生活排水などが混入していたからです。

花電車です。私のイメージは夜、電灯をたくさん点けて走る姿です。

花電車

 花電車も良い思い出として残っています。
 花電車は札幌祭り(北海道神宮例大祭)やクリスマスなど、大きな行事がある日や祭日に走りました。
 私の子供の頃のイメージは、夜、電灯をたくさん点けて走ってくる花電車です。さすがに電車だけあって、電気には不自由しないと思ったりもしました。
 この花電車がやって来ると、何となくうきうきしたものです。子供ながら夢があったんですね。

土佐犬

土佐犬(イメージ)
 電停でのもう一つの思いでは「土佐犬」の話です。
 私が10歳くらいの頃、自宅の隣を「北海十字」という洋菓子店に貸していたのですが、そこの主人が大きな土佐犬を飼っていたのです。

 土佐犬は闘犬としても有名で、その性格は、飼い主に対しては従順でおとなしいものの、他人には心を許しません。また土佐犬は縄張り意識が強いため、番犬には向いていますが、ほかの犬と仲良くするのは難しいようです。

 ある日、その土佐犬が何に気が障ったか、電停で電車を待っている人に襲いかかろうとしていたのです。それを飼い主である洋菓子店の主人が、地面に転がりながら、必死になってくい止めていたのです。
 大型犬ですので、飼い主は引きずられながらも、どうにかこうにか事無きを得ることができましたが、土佐犬には、犬として、そうとう腹が立つことがあったんでしょうね。
札幌祭り「勤皇隊」(市電 西高校前) 白黒をカラー化
左は、軒花(のきばな)の写真で、家を掃き清め生花を軒下に飾り、神輿に乗ってきた神を迎えたことが始まり

札幌祭り(北海道神宮例大祭)

 昭和30年代の札幌祭りの神輿渡御は、二日間に渡って行われました。
 軒花(のきばな)を軒先に刺すとお祭りの雰囲気が一気に上がります。
 軒花はお祭りを盛り上げるために飾るだけではなく、本来は”邪気を払う”意味合いがあるそうです。

 軒花は、お祭りの時に家を掃き清め生花を軒下に飾り、神輿に乗ってきた神を迎えたことが始まりで、現在は、桜花型に作り染めた和紙を竹棒で貼ったものを、玄関や門前に飾るのが一般的になりました。
 
 子供の頃、母と一緒に神輿の行列についてゆき、西高校電停前から札幌神社(現 北海道神宮)まで歩いていったこともありました。
 札幌祭りの神輿渡御で興味深かったのは、神輿ではなく、あの勤皇隊の笛の音(ピーヒャラドン)と一本歯の高下駄を履いた天狗でした。
 あれから70年以上経った今でも、そのときの光景が目に浮かんでくるのです。
 2025/8/13 石川栄一
目次
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市電の思い出
 数年前の写真ですが、久しぶりに市電に乗ってみました。子供の頃は乗降客の長い行列でしたが、いまは閑散としておりました。
 また、荷物を載せる為の網棚がないのは、地下鉄やバスと同じで、不便を感じます。車掌もいないワンマンカーですので殺風景ですが、のんびりと車窓からの眺めを楽しめます。なかなか良いものです。 皆さんも札幌に来たら市電に乗りませんか。
「ススキノ停車場 」 昔はグリーン色の車体カラーでしたが、このようにカラフルな車両もありました。
いよいよ出発進行
「市電の車内」 午前10時頃でしたが、ガラガラです。
乗客は高齢者が目立ちます。
「資生館小学校停車場付近」 昔は「創成小学校前」だったと思います。向かいの5階建てビルのところに、北総デパートという月賦専門販売店がありました。私も高校時代はお世話になりました。当時流行っていたエレキギターやテープレコーダーを買ったのもこの店でした。
「山鼻9条停車場」付近。昔の運転手さんは、立ったままの運転でしたが、現在は座って運転しています。
「山鼻9条停車場」 昔は電停には屋根がなかったので、雨が降ったら電停は傘だらけになりました。
「中島公園通停車場」 この停留所から東に進むと中島公園に入り、豊平館付近に出ます。更に進むと、札幌コンサートホール Kitara(キタラ)に到着します。
「中島公園通停車場」 グリーン色の車両は昔と同じ色ですね。
「中島公園通停車場」 カラフルな色の車両。車体広告料は幾ら位なのかな。そこで広告料金を調べました。車体広告は「ラッピングトラム」というそうで、何と一ヶ月33万円だそうです。
★詳しくはこちらへ「路面電車広告メディアガイド(PDF)」
この車体広告が一ヶ月33万円は安いか高いかは私には分かりません。
広告の効果は分かりませんが、見ていて何となく楽しくなります。
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元北海道大学大学院工学研究科・工学部 文部科学技官 石川 栄一
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